プーチン大統領、ロシアとウクライナの歴史を語る

まず、歴史を的確に理解することが肝心。

プーチン大統領、ロシアとウクライナの歴史を語る

・862年、ノヴゴロドフィンランドとモスクワの間にある)の住民がスカンジナビアのリューリク王子を統治者とし、ロシア国家が設立
・リューリクの後継者が兄弟を追放し、ロシアは「キエフ」と「ノヴゴロド」2つの権力の中心地を中心に発展し始めた
・988年リューリクの曾孫であるウラジーミル王子が東方正教を採用し、ロシアは洗礼を受ける。
・統合された経済関係、同じ言語。ロシアの洗礼後、同じ信仰と統治により、中央集権的なロシア国家が形を作り始めた
・ヤロスラフ1世が王位継承順位を導入するも、彼の死後それは守られることなく、ロシア国家は分裂した
・分裂したロシア国家は、モンゴル帝国の格好の餌食となった
モンゴル帝国によってキエフを含む南部と他のいくつかの都市は独立を失ったが、北部の都市は主権の一部を維持し、モスクワを中心とする統一ロシア国家が形成され始めた。
キエフを含むロシアの南部は、ヨーロッパに出現しつつあった中心である別の磁石に徐々に引き寄せられ始めた
・ヨーロッパに引き寄せられた南部はリトアニア大公国となった。人口の大部分をロシア人が占めるためリトアニア・ロシア公国とさえ呼ばれていた
・彼らは古いロシア語を話し、正統派だった。しかしその後、リトアニア大公国ポーランド王国の統合が行われた
・宗教の領域において、正教会の司祭の一部がローマ教皇に従属するようになった(モンゴルを恐れて教皇に近づきカトリックに改宗)。こうしてこれらの土地はポーランドリトアニア国家の一部となった。

ポーランド人は、数十年にわたりこの地域の植民地化に従事した。彼らはそこに言語を導入し、この住民は正確にはロシア人ではなく、辺境に住んでいるからウクライナ人であるという考えを定着させようとした。
・もともと「ウクライナ人」という言葉は、その人が州の郊外や周辺地域に住んでいる、または国境警備隊に従事していることを意味しており、それは特定の民族を意味するものではなかった。
ポーランドはあらゆる方法で”ロシアの土地であるこの地域”を植民地化しようとしており、実際に残酷とは言わないまでもかなり厳しく扱っていた。
・それが、”ロシアの土地のこの地域”が自分達の権利のために闘争し始めたという事実につながった。
・現在ウクライナと呼ばれている”ロシアの土地のこの地域”で当時権力を掌握していたボフダン・フメリニツキーワルシャワに書簡を送り、自分達の権利を守るよう要求した。
ワルシャワに拒否された後、彼はモスクワに手紙を書き、モスクワ皇帝の強力な手の下に置くよう求めた。
・それはポーランドとの戦争が始まることを意味するにも拘わらず1654年、旧ロシア国家の権力の代表機関であるツァーリが率いる最高聖職者と地主のロシア議会は、旧ロシアの土地の一部をモスクワ王国に組み込むことを決定した。
・予想通り、ポーランドとの戦争が始まった。それは13年間続き、1654年に休戦が締結されました。
・そして32年後、永遠の平和と称するポーランドとの平和条約が締結された。そしてこれらの土地、キエフを含むドニエプル川東岸全体がロシアに渡った。そしてドニエプル川西岸全体がポーランドに残った。
帝政ロシアの皇帝エカテリーナ2世の統治下で、大ロシアは南部と西部を含む歴史的土地のすべてを取り戻し、これはすべて革命まで続いた。