金栗四三のマラソン足袋


金栗四三が1911年(明治44年)のストックホルム・オリンピックのマラソンで履いた足袋)

まだまだ池井戸潤の『陸王』ネタが続きます。

陸王』の第二章の冒頭で金栗四三(かなぐりしそう/かなくりしぞう)が、オリンピックで足袋を履いて走った話が紹介されている。ちょっと感動的です。

明治時代にこんなすごい日本人アスリートがいたのですね。

しかも日本の足袋を履いて。


金栗さんは、グリコの商標のモデルにもなっています。



1911年(明治44年)、金栗選手は、翌年に開催されるストックホルム・オリンピックに向けたマラソンの予選会に出場し、なんと、足袋を履いて、当時の世界記録を27分も縮める大記録(2時間32分45秒)を出したそうです。すごい。

そして、期待されたストックホルムオリンピックですが、ものすごい猛暑のため、レース途中で日射病により意識を失って倒れてしまった。たまたま通りかかった農家の人に助けれれ介抱されたそうです。

金栗が目を覚ましたのは既に競技が終わった翌日の朝。金栗はレースを諦めざるを得ず、そのまま帰国。

そのときのマラソンレースは、最高気温40℃という記録的な暑さで、参加者68名中およそ半分が途中棄権し、死亡した選手もいたらしい。

結局、金栗の途中棄権は、オリンピック委員会に伝わっておらず、「競技中に失踪し行方不明」とされた。

ラソン中に行方不明。ちょっと今では考えられませんが、明治時代のオリンピックではこんなこともあったのですね。


感動的なのは、その後日談。

「競技中に失踪し行方不明」として扱われていたことを再発見したオリンピック委員会は、金栗さんを正式にゴールさせることにした。粋なとりはからいです。

金栗さんはこれに応じ、ゴールテープを切った(1967年3月21日)。

ゴールのタイムは、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒。

「これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされた。


54年8か月6日5時間32分20秒という記録は、オリンピック史上最も遅いマラソン記録である。おそらく、この記録が破られることはないだろう。


金栗翁は、このとき、「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」と言ったらしい。シャレてますね。




●【KSM】オリンピック 金栗四三選手、54年8か月と6日5時間32分20秒3でゴール!―ストックホルム五輪
https://www.youtube.com/watch?v=baIBsUmVuTM



●オリンピック史上最も遅いマラソン記録 金栗四三
https://www.youtube.com/watch?v=DZH95kx-5W0

ラソン中に消えた日本人の話は地元で開催されたオリンピックの話題の一つとしてスウェーデンではしばらく語り草となっていた。また、マラソンを途中で止めた理由として、単にソレントゥナ(Sollentuna)のとある家庭で庭でのお茶会に誘われ、ご馳走になってそのままマラソンを中断したという解釈も示された。
当時の金栗はランナーとして最も脂ののった時期であり、1916年(大正5年)のベルリンオリンピックではメダルが期待されたが、第一次世界大戦の勃発で開催中止となり出場することができなかった。その後、1920年大正9年)のアントワープオリンピック1924年大正13年)のパリオリンピックでもマラソン代表として出場した。成績はアントワープで16位、続くパリでは途中棄権に終わっている。
1920年大正9年)、第1回東京箱根間往復大学駅伝競走箱根駅伝)が開催され、金栗もこの大会開催のために尽力している[2]。
1967年(昭和42年)3月、スウェーデンのオリンピック委員会からストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待された。ストックホルムオリンピックでは棄権の意思がオリンピック委員会に伝わっておらず、「競技中に失踪し行方不明」として扱われていた。記念式典の開催に当たって当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、金栗を記念式典でゴールさせることにしたのである。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場をゆっくりと走って、場内に用意されたゴールテープを切った(日付は1967年3月21日)。この時、「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされた[4]。54年8か月6日5時間32分20秒3という記録はオリンピック史上最も遅いマラソン記録であり、今後もこの記録が破られる事は無いだろうと言われている[5]。金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントした[4]。
なお、ストックホルムオリンピックから100年を経た2012年に、金栗のひ孫にあたる男性が金栗を介抱した農家の子孫を訪ねている。
金栗が残したその他の有名な言葉として「体力、気力、努力」がよく知られている。
晩年は故郷の玉名市で過ごし、1983年(昭和58年)11月13日、92歳で大往生した。
金栗の功績を記念して富士登山駅伝及び東京箱根間往復大学駅伝競走箱根駅伝)に「金栗四三杯」が創設されている。富士登山駅伝では一般の部の優勝チームに対して金栗四三杯が贈呈されている。また、箱根駅伝では2004年(平成16年)より最優秀選手に対して金栗四三杯が贈呈されている。このほか「金栗記念選抜中・長距離熊本大会」や「金栗杯玉名ハーフマラソン大会」のように「金栗」の名を冠した大会もある。なお、熊本県民総合運動公園陸上競技場の愛称「KK ウィング」は金栗にその名を由来している。