2月21日に行われたリチャード・コシミズ徳島講演会の冒頭における、徳島の坂東俘虜収容所の話に興味を惹かれました。
大正時代の徳島におけるドイツ人捕虜と日本人との間の美しくも感動的な交流。大正時代にこんなことがあったのですね。
これは、日本人のとてもすぐれた資質を理解することができる事例のひとつでしょう。
板東俘虜収容所を通じてなされたドイツ人捕虜と日本人との交流が、文化的、学問的、さらには食文化に至るまであらゆる分野で両国の発展を促したとも評価されている。板東俘虜収容所の生み出した“神話”は、その後20年余りの日独関係の友好化に寄与した。
●【KSM】ドイツ兵捕虜と日本人の友好で生まれた「収容所第九コンサート」板東俘虜収容所
https://www.youtube.com/watch?v=ihpCeBEK8r8
1917年に丸亀、松山、徳島の俘虜収容所から、続いて1918年には久留米俘虜収容所から90名が加わり、合計約1000名の捕虜が収容された。収容所長は松江豊寿陸軍中佐(1917年以後同大佐)。松江は捕虜らの自主活動を奨励した。今日に至るまで日本で最も有名な俘虜収容所であり、捕虜に対する公正で人道的かつ寛大で友好的な処置を行ったとして知られている。板東俘虜収容所を通じてなされたドイツ人捕虜と日本人との交流が、文化的、学問的、さらには食文化に至るまであらゆる分野で両国の発展を促したとも評価されている。板東俘虜収容所の生み出した“神話”は、その後20年余りの日独関係の友好化に寄与した。
板東俘虜収容所は、多数の運動施設、酪農場を含む農園、ウイスキー蒸留生成工場も有し、農園では野菜を栽培。また捕虜の多くが志願兵となった元民間人で、彼らの職業は家具職人や時計職人、楽器職人、写真家、印刷工、製本工、鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋など様々であった。彼らは自らの技術を生かし製作した“作品”を近隣住民に販売するなど経済活動も行い、ヨーロッパの優れた手工業や芸術活動を披露した。また、建築の知識を生かして捕虜らが建てた小さな橋(ドイツ橋)は、今でも現地に保存されている(現在では保存のため通行は不可)。文化活動も盛んで、同収容所内のオーケストラは高い評価を受けた。今日でも日本で大晦日に決まって演奏される、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番が日本で初めて全曲演奏されたのも、板東収容所である。このエピソードは「バルトの楽園」として2006年映画化された。(Wikipedia)
板東俘虜収容所を舞台にしたドイツ人捕虜と日本人との交流については、「バルトの楽園」という映画がつくられている。
●バルトの楽園(予告編)
https://www.youtube.com/watch?v=WsxJ0qpB4TY
第一次世界大戦中の徳島県鳴門市の板東俘虜収容所が舞台で収容所所長・松江豊寿の活躍や、俘虜となったドイツ兵と地元の住民の交流などを史実に基づいて描いた作品。松江は俘虜に対し人道的な扱いを心がけ、俘虜による楽団が『交響曲第9番 歓喜の歌』を日本で初めて演奏した。
●2015.2.21 リチャード・コシミズ徳島講演会
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https://www.youtube.com/watch?v=KWIsJ4FbPvE&list=PLPg7hSdi4rU4IgQ_P4LDMfok-9NNFh557