集団的自衛権の固執は“ヘタレ”の証拠

「世相を斬る あいば達也」ブログの記事。安倍晋三にぜひ読ませたい。


読解力とともに知的な理解力も無さそうだから無理か。



http://blog.goo.ne.jp/aibatatuya/e/58e491cdd04842858c62e7ea63714316
集団的自衛権固執は“ヘタレ”の証拠 安全保障概念から防衛突出

 パックス・アメリカーナで、国土も国民も民族も滅茶苦茶にされたイラクの状況が一気に内戦模様になってきた。同じく、アメリカに弄繰り回されたアフガニスタンも、タリバン勢力の存在が際立ち、民主化などとは程遠い。嘗ての朝鮮戦争では北朝鮮と云う鬼子を産んだし、ベトナム戦争でも決着をつけずに、撤退と云う無残さをみせたアメリカーナだが、最近はロシアの袖に位置するウクライナに介入して、またまた世界に騒乱を起こさせている。シリアも、エジプトも然りだね。

 考えるまでもなく、パックス・アメリカーナの言うところの「普遍的価値」と云う心地よい響きの言葉の誘惑に負けて、安倍晋三は恥も外聞もなく、日米同盟の深化、集団的自衛権行使容認を、ゴミ内閣内で閣議決定しようとしている。おそらく、現在は与党の公明党を揉めている寸劇に興じているが、産みの苦しみを乗り越えた快挙、とマスメディア政治部に思い切り書かせることになるだろう。いまでの強引な国会運営から考えても、今国会中の閣議決定となるのだろう。まぁ中国の横暴を産経、読売が連日囃し立てているのも、この“アベの集団自衛権”への吸気の醸成と見ておいて良いようだ。

 以下はダイアモンド・オンラインに掲載の田岡俊次集団的自衛権と安全保障との関係性についてのコラムだが、概ね正論を語っている。EU各国の軍縮が驚異的スピードで実現したのも、安全保障と云うものが、≪軍事力だけではなく、外交や情報、経済関係、信頼醸成など多くの要素が加わって確保されることは常識だ。≫と云う点に異論はない。ただ、≪「もし戦争が起きればどうする気か」と聞くと、「もうヨーロッパでは戦争は起きませんから」と言う。EUで経済が一体化し、政治・行政も徐々に融合化する中、隣国との戦争はないと見て大軍縮ができる状態こそ、安全保障の究極の姿か、と感じ入らざるをえない。≫の部分は、その積りだったがウクライナの扱いで、NATO軍と云う枠組みでアメリカンの介入が強く、軍縮した以上、軍事力は米軍頼りにならざるを得なくなる皮肉が含まれる。

 どうも、安倍晋三NATO軍を模して「東NATO軍」のイメージで事に臨んでいるようだが、アメリカンの好戦国家の腕力に屈する痛手を味わうだろう。自衛隊が海外に出て、血を流すことはないなんてのは冗談で、なし崩しにアフガンやイラクペルシャ湾、うっかりするとウクライナまで、のこのこ派兵の憂き目にあうだろう。安倍晋三にとって、仮想敵国である中国と、外交や情報、経済関係、信頼醸成など根性いれて行うだけの器量もないから、軍事防衛一辺倒な思考にしか至らない。軍事力で抑止するってのが、大変わかりやすい。ゆえに、軍事防衛で安全保障を担保する。軍事防衛が唯一なのだから、米軍と共に姿勢でないと、到底勝てそうもないし、抑止にはならないと考えているのだろう。ほとんど、直近のひらめきと、岸信介と冥途で話すときのネタを入手したいのだろう。

 田岡氏のコラムの最後に例によってアンケートがある。設問は「日本の安全保障にとって軍備の拡張は必要だと思いますか?」だが、6割が反対だが、軍備拡張に4割の人が賛意を表している。コラムの流れから、この設問には集団的自衛権の容認も踏まえて、と云う意図がある。反対が多いだろうと思ったが、意外にも4割の安全保障は軍事力なり、という人々がいるのがわかる。ただ、筆者の解釈だが、防衛のための軍事力行使や海外派兵に自分が行くわけではないから、米軍に守られている以上、何もしないのも恰好が悪い。せめて自衛隊員には汗を流してもらおう。その為に、税金で養っているのだし、折角の軍備も宝の持ち腐れは、あまりにも無駄などと云う考えの人々も多く含まれるだろう。自衛隊員がかなりの犠牲を出せば、今でも退職者が続出しているのに、退職の嵐が吹き荒れるだろう。そのあとは、もう徴兵制しか思いつかない政府なのだが、そこまで考えて答えている人は極わずかだろう。



≪ 大新聞すら大間違い。「安全保障とは軍隊で国を守ること」という誤解を解く
6月8日の朝日新聞朝刊に「安全保障とは」という問いに対し「国が安全でいられるよう軍隊で守ること」との答えが出ていて、唖然とした。これでは「安全保障」と「防衛」は同意語となってしまう。安全保障は軍事力だけではなく、外交や情報、経済関係、信頼醸成など多くの要素が加わって確保されることは常識だ。戦史、軍事史を振り返って、安全保障=軍事力という理解が、いかに危険なものであるかを検 証してみよう。

朝日新聞の解説に唖然
 6月8日の朝日新聞朝刊3面トップは、「集団的自衛権・優しい表現で考える」という解説記事だったが「安全保障とは」という問いに対し「国が安全でいられるよう軍隊で守ること」との答えがあり、それが見出しにもなっていたのには唖然とした。これでは「安全保障」と「防衛」は同意語となり、軍事力を増強すればそれだけ国の安全度は高まるということになる。軍隊一辺倒の安全保障論だ。  
 軍事力が国家の安全保障にとって重要な要素であることは確かだが、戦史、軍事史を知る者にとっては、安全保障は軍事力だけではなく、外交や情報、経済関 係、信頼醸成など多くの要素が加わって確保されることは常識だ。一国が自国の安全保障を考えて軍事力を増強すれば、それと対抗関係にある他国も増強して軍備競争になりがちで、相手も強くなれば金は掛かるが安全性は一向に高まらず、互いの破壊力が増すから、かえって危険にもなりかねない。

◆「大災厄」を招いたドイツの大艦隊
 その一例は第一次大戦前のドイツとイギリスの「建艦競争」だ。1871年普仏戦争を勝利に導きドイツ統一を実現した宰相ビスマルクは、フランスの報復戦を警戒して、イギリスとの友好関係を保ったが、1890年に彼を罷免して実権を握った独皇帝ウィルヘルム?世(当時31歳)は大海軍を造って海洋進出を目指した。1896年のドイツは戦艦6隻を保有するだけだったが、1898年の「艦隊法」では戦艦19隻、巡洋艦32隻を目指し、その2年後 1900年の「第2次艦隊法」では1917年までに戦艦38隻、巡洋艦58隻などにする壮大な計画となった。
 これは英国の海洋支配を脅かすだけに、英国は露、仏を仮想敵とし、独とは友好的だった従来の姿勢を一転し、日本、フランス、ロシアと同盟や協商関係を結ぶとともに、ドイツをしのぐ急速な海軍拡張に向かった。1909年には戦艦8隻建造の予算が付き、10年以降も毎年戦艦5隻を発注することになった (注・近年日本ではWar Ships[軍艦]を誤って「戦艦」と訳す例が多い。戦艦[Battle Ships]は大口径の砲を搭載、重装甲で砲戦を専門とする艦で、軍艦中の一種。念のため)。  
 当時のドイツにとり、イギリスは第1の輸出相手国、イギリスにとっては、ドイツは最大の投資相手国で、経済の相互依存関係が確立していた。またウィルヘ ルム?世は英国のヴィクトリア女王の孫であったことが示すように、両国の上流階級は複雑な親族関係で結ばれ、政体(立憲君主制)でも、「価値観」(植民地支配を是認)でも本質的な差異はなかった。だが建艦競争による対立意識を双方の海軍当局、造船・兵器産業、新聞、出版社が煽り立てたため英独民衆の敵意が高まった。
 1904年6月28日にオーストリア皇太子夫妻が同国の支配下にあったボスニアサライェボでボスニア人青年に暗殺された事件は、そのテロ活動の背後にいた、と見られたセルビアに対し7月28日にオーストリアが宣戦を布告する事態に発展した。日本の新聞は当初「墺塞(オーストリアセルビア)戦争」と報じたが、8月4日までに独、露、仏、英が参戦して「欧州大戦」となり、さらに日本、イタリア、のちアメリカ、英国の自治領などが英仏側につき参戦、トルコ、ブルガリアが独墺側に加わり、「世界大戦」となった。戦後のヴェルサイユ講和会議には「戦勝国」として32ヵ国が出席し、うち22ヵ国は欧州外の国だった。この戦争の死者は軍人802万人、民間人664万人と推定されている。  
 戦後の英国では、冷静に考えれば、バルカン半島でのセルビアオーストリアの戦争にロシア(セルビアと民族的にも宗教的にも近く、セルビア支持)とドイ ツ(オーストリアと民族的に近い)が加わったのはまだしも、英国が戦争に加わって死者94万人、負傷者者209万人を出すべき理由はなかった、との論が高まった。複雑な同盟網があったため、それを伝わって延焼したのが主因で、同盟には抑止効果があると同時に、一部に戦争が起これば他国への導火線となって参 戦に向かわせるリスクもあることを示した。また、英国人が戦争熱に浮かされたのは、ドイツとの建艦競争で敵対感情が煽られていたこと、ドイツの興隆で英国 の経済的優位が低下していることへの焦りもあった、と英国の戦史家は分析する。  
 海軍マニアだったドイツのウィルヘルム?世が作った「大海艦隊」はドイツの安全保障の支柱になるどころか、大災厄を招いた。もしそれが無ければ多分英国 は中立を保ち、米国が英国救援のために参戦することもなかったはずで、独墺同盟側が、露仏連合に対して勝利を収めた公算は高かった。敗戦後のドイツでのナ チスの台頭や、「20年の休戦」をはさんでの第2次世界大戦も起きなかっただろう。「国の安全は軍隊が守る」とは言い切れない例だ。 

◆軍備拡張競争で崩壊したソ連
 第1次世界大戦前、小銃と大砲、騎兵の時代には軍が前線で戦い、国民の安全を守るという図は描きえた。だがこの戦争で航空機が兵器として発達し、 末期の1918年8月のアミアンの戦いでは仏軍1100機、英軍800機、独軍360機が投入されて大空中戦が展開され、1.8tの爆弾を搭載する複葉の 4発爆撃機も出現し、都市や工業地帯の爆撃も始まった。またこの戦争は軍隊だけでなく、工業力、食料生産、海運など全ての国力を動員した「総力戦」になったから、民間目標や商船も航空機や潜水艦の攻撃対象になり、前線と後方の区別は無くなった。第2次世界大戦ではこれは一層激しくなったが、特に核兵器の登場で「戦争になっても軍が国民を守る」とは誰も言えなくなった。
 核兵器は1945年7月16日のニューメキシコ州アラモゴルドでの初の核実験後、4年余り米国が独占していたが、49年8月29日カザフスタンセミパラチンスクでソ連が核実験に成功し、核軍備競争が始まった。ソ連側に立って考えれば、これは米国の核攻撃を抑止し、核威嚇に対抗し、「国が安全でいられるように軍隊で守る」つもりだったろうが、核軍備競争になっては、そうとも言えない状況に陥った。米国はピーク時の1966年には3万1700発、ソ連は1986年がピークで4万0723発もの核兵器保有し、もし核戦争になれば巻き上がるチリで太陽光線が妨げられ、地球の気温が数年間低下し、農業生産が激減、人類が滅びる「核の冬」も起きそうな気配になった。ソ連で1959年、アメリカで1960年に大陸間弾道ミサイルが配備に着くと、核戦争は相互破壊に終る公算が高まり、さらに先制攻撃でも破壊が困難な潜水艦発射の弾道ミサイルの配備が進み、米ソ間での「相互確証破壊」が成立した。
 これにより米ソの核戦争は起きず、冷戦は終結したから、核報復能力による核戦争の抑止は成功した、と言えるが、これは核の脅威をある程度相殺しただけで、米国が究極の軍事力である核兵器を持つ1945年7月以前と比べて安全になった訳ではない。第2次世界大戦では原爆がなくても米国の勝利は確実だった。一方ソ連は核を持ったことで、米国の一方的な核使用を防ぐことはできたものの、過大な軍備による経済の不振やアフガニスタン介入の失敗で国家が崩壊した。冷戦後核軍縮は進んだが、なお世界には約1万7000発(うち米国に7600発、ロシアに8400発)もの核兵器があり、人類を滅亡させるに十分と考えられる。

◆「ミサイル防衛」も気休め程度の効果
「抑止」(Deterrence)は日本では「防衛」と混同して使われることが多いが、本来は報復能力を示して、攻撃を防止することで、相手側の 理性的判断(やったらやり返されるからやめておこうという利害の計算)を前提としている。北朝鮮の核に対しては抑止はすでに十分に効いていて、もし北朝鮮が核を使えば、米海・空軍、韓国空軍の通常(非核)兵器による攻撃でも、北朝鮮の滅亡は確実だ。だから北朝鮮指導部が核使用を決意するのは、おそらく滅亡が迫って自暴自棄の状態に陥り、「死なばもろとも」の心境になった場合と考えられる。日本海軍が残っていた戦艦大和を沖縄に出撃させたような状況だ。こうした自暴自棄の相手には抑止は効かない。自爆テロに対して「死刑に処す」と言っても効果が無いのと同様だ。 「ミサイル防衛」は抑止ではなく純粋の防衛だから若干の効果はあるが、核付きのミサイル(7、8基程度と思われる)を同時に多数の火薬弾頭ミサイルと混ぜて発射されれば、そのうち一部を破壊しても突破されるし、大気圏外に上昇してロケットと弾頭を分離する際、アルミ箔の風船様のオトリを放出される と、空気の無い宇宙では弾頭と同じコース、速度で飛ぶから、どれを狙うべきか判定は困難だ。弾頭は上昇中に大気との摩擦で熱を帯び、オトリは冷たいから赤 外線の有無で識別する迎撃ミサイルが開発されているが、オトリに発炎筒をつけて熱を出すことは容易なはずだ。
 こうした問題があるため、日本のイージス艦は1隻に8発程度の「SM3」弾道ミサイル迎撃ミサイル(1発16億円)しか積んでいない。不発、故障 もあるから1度に2発ずつ発射するから相手側のミサイル4基にしか対応できない。陸上発射の「PAC3」迎撃ミサイル(8億円)は射程が20km以下で、 1地点(航空基地、橋頭堡など)しか守れず、1発射機に4発入れているから2回しか打てない。「何も対策が無いと国民が不安になる。気休め程度の効果はあります」と言った将官もいた。
 そこで「相手が弾道ミサイルを発射しそうになれば先に攻撃して破壊すべきだ」との説が出るのだが、北朝鮮弾道ミサイルは海岸の舞水端里などのテストセンターで何週間もかけて組み立てて発射するのではなく、中国国境に近い山岳地帯など内陸のトンネルに、移動式発射台に載せて隠され、新型の「ムスダ ン」は出て来て10分程度で発射可能とされているから、発見は困難だ。偵察衛星は1日に1回程度、時速約2万9000kmで北朝鮮上空を通過するから常時監視は不可能だ。赤道上空を高度約3万6000kmで周回する静止衛星は距離が遠すぎて地表の物体の探知は出来ず、電波の中継や、ミサイル発射時の大量の赤外線を感知することにしか役に立たない。無人偵察機グローバルホーク」でも内陸の谷間を撮影するには領空侵犯して直上を旋回させるしかなく、巡航高 度1万8000mは、旧式のソ連製SA2対空ミサイルでも届く高さだ。北朝鮮の核ミサイルは日本にとり当面もっとも深刻な脅威だが、これに対し「軍隊で守る」のは困難なのだ。

◆欧米では評価の高かった日朝平壌宣言
 2002年9月、小泉純一郎首相と金正日国防委員長が発表した日朝平壌宣言は、「双方が核問題に関し、関連するすべての国際的な合意を遵守する」とし、北朝鮮はミサイル発射のモラトリアム(停止)を続け、見返りに日本が国交正常化と経済協力をする、というのが主な内容だった。核に関する国際的合意とは北朝鮮が1985年に加盟した核不拡散条約(NPT)や1992年に南北が合意した「朝鮮半島非核化宣言」をさし、NPTを守って査察も受けるなら、 核開発は中断になるはずで安全保障上大きな意義があった。
 ロシア、中国が90年、92年に韓国と国交を結んで、北朝鮮は孤立し、通常戦力では韓国に決定的な差をつけられた北朝鮮は、日本と国交を樹立しても、なお秘かに核開発を続ける可能性は考えられたが、もしNPTにもとづくIAEA国際原子力機関)の査察に協力せずもめ事を起せば、日本からの経済援助や融資、合弁事業などが停止するから、日本への依存度が高くなればなるほど核開発はリスクが大きくなり、少なくとも核実験はやりにくかったはずだ。拉致問題の情報収集や交渉も日本大使館平壌にあれば今より容易だったろう。平壌宣言に対して欧米の新聞は「信じがたいほどの北朝鮮の譲歩を日本は獲得した」 と評価した。
 だが日本ではメディア、大衆の関心は核問題よりも拉致問題に集中し、平壌宣言は履行できず、逆に経済制裁に向かった。北朝鮮は2003年1月 NPTからの脱退を通告し、06年に核実験を行うに到った。威力が爆薬約2万t相当の初歩的な原爆でも、東京都心上空でウィークデーの昼間に爆発すれば、熱効果の半径は約3kmでその中に約150万人がいると推定され、数十万人の死傷者が出る。他の大都市も攻撃されれば国の存立にも関わるから、核問題の重要性は拉致問題とは比較にならない、と私は常に説き、安全保障に関心のある人々はほぼ誰もが同意したが、メディアは「国民感情」を恐れてその部分を削ったり「それは今おっしゃらないでいただきたい」と釘をさすことが多かった。
 日本人の多くにとって戦争は非現実的な話で、まして核攻撃は空想小説のように思えるのだろう。原発安全神話もそれに似ていた。当時アメリカの情報機関が「拉致問題で騒ぐ自民党タカ派平壌宣言を覆し、北朝鮮核武装させ、それを口実に日本もNPTを脱退して核武装をしようと狙っているのではないか」との猜疑を抱いて、日本で裏取りに回っていた。それは的外れながら一理はある、と思わざるをえなかったし、結果としても「北朝鮮核武装」までは当たっていた。
 この経緯を考えても、「安全保障とは国の安全を軍隊で守ること」というのは幼稚な論であり、日本が国力に不相応な軍事力を持ち、第2次世界大戦で320万人の死者を出し、疲弊して降伏した教訓を忘れた説と感じざるをえない。安全保障の要諦は、敵になりそうな国は出来るだけ懐柔して敵意を和らげ、中立的な国はなるべく親日的にして、敵を減らすことにあり、わざわざ敵を作るのは愚の骨頂だ。「天下布武」を呼号し、乱暴者に思える織田信長も良く見れば敵を口説いて味方や中立にする「調略」で成功したことが多く、豊臣秀吉徳川家康はさらにそれに長じていた。だが今日、官僚機構となった軍隊はまず敵を決めないと作戦計画が立てられず、作戦計画を基にして部隊配備や装備の要求をするから、次の敵はどの国か、と探し求め、予算、人員獲得のためにその脅威を宣伝するうち、自分も敵対感を募らせる滑稽な事態が起きがちだ。相手側もそれに対抗するから国の安全保障と逆行することも少なくない。

◆ドイツに学ぶ究極の安全保障
 近年「調略」に成功したのはドイツだろう。NATOの有力国として米、英、仏などと連携し、親密な関係を築く一方、1970年からは東独との首脳会談、ソ連との武力不行使、現状承認、ポーランドとの国交正常化を行い、プロシア発祥の地で、第2次大戦後はポーランドが支配していた旧ドイツ東部、オーデル川、ナイセ川の東、約10万3000平方km(統一ドイツの面積の約29%)の領土を、旧住民の不満を抑えて、ポーランド領と認めるなどの「東方政策」で、東側の諸国との関係改善につとめた。私もNATO軍の演習などの取材や、安全保障関係の会議に招かれるなど、何度も西独を訪れたが、他国との親善友好をはかる官民挙げての努力には感嘆した。その甲斐あって、1989年にベルリンの壁が崩れ、90年10月にドイツが再統一した際にも、国際政治の常識ではそれに反発しそうなフランスやポーランドから横槍が入ることはなく、EUでのドイツの存在感はますます高まっている。
 こののち欧州諸国は急速な軍縮に向かい、統一前、1990年の西独陸軍は現役30.8万人、予備役71.7万人、戦車5045輌だったのが、 2013年には現役6.2万人、予備役1.3万人、戦車322輌に減り、陸上自衛隊の15.1万人、予備役4.6万人、戦車777輌とくらべ半分以下に なった。ドイツ空軍も戦闘機・攻撃機511機が205機に急減した。仏、英の陸軍、空軍も同様な縮小を行い、英海軍もかつての水上艦48隻が今は18隻 に、潜水艦も32隻が10隻になるなど、海上自衛隊の水上艦48隻(他に訓練用3隻)、潜水艦16隻(同2隻)よりずっと小さくなった。特に財政負担になることが少ない予備役がほとんど廃止になったのは驚きで「もし戦争が起きればどうする気か」と聞くと、「もうヨーロッパでは戦争は起きませんから」と言う。EUで経済が一体化し、政治・行政も徐々に融合化する中、隣国との戦争はないと見て大軍縮ができる状態こそ、安全保障の究極の姿か、と感じ入らざるをえない。
 また、歴史的には最も激しい戦争が続き、20世紀には2回の大戦が起きたヨーロッパで、スウェーデンとスイスはナポレオン戦争の末期1814年以来、今年で200年間戦乱に呑み込まれず平和を保ち、他国が壮大な浪費と人的損害を重ねたなか、両側の交戦国に武器や部品を売り、戦時利得を得て最富裕国 となった手際も見事だ。どの交戦国もうかつにスイスやスウェーデンに攻めこめば相当厄介な相手になるだけの軍備を整え、どの国とも軍事的関わりを持たない中立政策を保ったことで、安全保障に成功したのだ。
 これらの例を考えれば国の安全保障は、慎重、穏健な対外政策、正確な情勢判断に基づく巧妙な外交、近隣諸国との良好な経済関係、他国の侵略をため らわせるには十分だが、脅威は感じさせない防衛能力、などが相まって全う出来るものであり「安全保障は軍隊で国を守ること」との解説は、むしろ国民を軍事 偏重に導き、国を危うくすることになりかねない。 ≫(ダイアモンドONLINE:田岡俊次の「目から鱗」)