終戦直後の熊谷空襲ジェノサイド

先ほどのNHK番組を見ていてムッときた。いつものことだけれど。

1945年の8月14日の夜、埼玉県熊谷市が米軍によって空襲され一晩で266人の市民が焼き殺された。空襲ジェノサイドである。しかも「終戦」の直後のことである。すでに戦争は終わっている。

米軍側はポツダム宣言の受諾の確認をしていたが、日本政府は2日間放置した、という番組構成。

つまり、熊谷ジェノサイドの責任は日本政府にある、とNHKは言いたいらしい。

空襲された森村誠一さんのコメントがありましたが、とてもがっかりした。ポイントがずれている。

アメリカへの回答を二日間放置した日本政府が悪かった。日本が熊谷空襲の殺人者だった、と森村誠一は言った。

ぎょっとした。それはないでしょう。

無差別大量殺人犯は日本ではなく米軍じゃないか。

原爆についての「反戦反核派」の一般的な見解を思い出す。「ヒロシマナガサキ」の悲劇は戦争を起こした日本の責任です、というもの。

二度と過ちは繰り返しません・・・

これと同じ趣旨のことを、年老いた森村誠一が言っている。

あるいは、森村誠一の長時間のインタビューからNHKはこの部分だけを切り出して編集している可能性もあるかも。


ところで、日中戦争の拡大と太平洋戦争への突入は、当時の海軍の米内光政のスパイ活動によるものであるという説について調べている。後日検討したい。

つまり第二次大戦も仕組まれた戦争だった可能性がある。

その主要工作員が米内光政と山本五十六だった。

戦後も米内光政はのうのうと生き延びて東京裁判でも戦犯にはならなかった。米軍のスパイだったから当然。

山本五十六は、さすがに良心の呵責からか自殺に近い形で死んだ。

ちなみに米内光政は、原爆が投下されたとき、「天佑だ」といったらしい。天佑(てんゆう)とは、思いがけない幸運、天の助け、という意味。やはりスパイならではの言葉。


ABCD包囲網によって石油が止められて、やむにやまれず、仕方なく日本は戦争に突入したという「仕方がなかった論」をいままで信じていたけれど、そうではなかったようだ。

太平洋戦争の再検証が必要。

【参照】
●熊谷空襲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E7%A9%BA%E8%A5%B2

熊谷空襲(くまがやくうしゅう)は、埼玉県熊谷市が受けた空襲である。太平洋戦争最後の空襲かつ埼玉県内では最大規模の空襲であり、熊谷市は埼玉県内唯一の戦災指定都市となった。

概要
1945年8月14日23時頃、マリアナ諸島テニアン島の基地より発進したアメリカ陸軍戦略航空軍所属のB-29爆撃機約80機により爆撃が行われた。

熊谷市が爆撃対象となった理由は判然としておらず、埼玉県の県庁所在地として間違えられた(当時の県庁所在地は浦和市(現・さいたま市)。ただし、明治時代初期に3年間という短命ながら存在していた熊谷県時代は県庁所在地であった)という説、大規模軍需工場があると思い込まれた(そのような事実は無い)という説などがあるが、地元では、熊谷陸軍飛行学校で多数の特攻部隊搭乗員が養成され、米軍に多大な被害をもたらしたのでその報復と考える人が多い。

焼夷集束弾や普通爆弾などによりまず市周辺部より、ついで中心部の順で無差別爆撃を受けた。

損害
市街地の74%が焼失、266人が死亡。