信長暗殺の首謀者はヴァリニャーニ

ヴァリニャーニが、イエズス会の力で日本の絶対君主である信長を抹殺することにした。

[2567]信長を徹底的に騙したのは、イエズス会の宣教師・ヴァリニャーノだろう
投稿者:田中進二郎
投稿日:2020-06-02 20:32:40


田中進二郎筆
今日は6月2日です。本能寺の変から438回忌の日である。正確には旧暦(京暦)の6月2日に信長公は死んだのであり、西暦では1582年6月21日が正しいのではありますが。副島先生の『信長はイエズス会に爆殺され、家康はすり替えられた』(PHP2016年刊)からはや4年が経った。イエズス会ローマカトリック教会)の偽善の歴史が、次々と暴かれている。

一番の最新刊では、バチカン教会の同性愛犯罪を告発した『ソドム』という浩瀚な書籍が出ている(750ページもある)。小児性愛ペドフィリア pedphilia)の問題の根底にあるカトリック教会の宿痾(しゅくあ)の問題を取り上げている。
この本を読むと、フリードリッヒ・ニーチェが一世紀前に「ローマ・カトリック教会は精神病院である、と断言したことが正しかったのだということがよく分かる。

大阪梅田の大書店・ジュンク堂で探すと、キリスト教関連書籍が山ほどある中で、この『ソドム』だけが7冊あり、カバー写真を出していた。あとは、タイトルだけだして一冊ずつしか売っていない。ルターもカルヴァンも、ヤン・フスプロテスタント神学者たちの本もほとんど売れていないだろう。真実暴露本以外、誰も買わねえよなあー、と改めて思いました。

(コロナのバカ騒ぎで怖がっている一億人の日本人は、バチカン教会の洗脳にいまだにはまってしまっている、知恵遅れの国民だ。偽善のマスクが一生剥がれないかもしれない。もう放っておきましょう。)

信長暗殺の真相を調べていくうちに、『日本史』を著したルイス・フロイスと、15年以上遅れて来日したアレクサンドル・ヴァリニャーニとの確執が気になりました。フロイスはヴァリニャーニによって日本の宣教活動から下ろされ、著述だけやるように命令された、という経緯があります。

副島隆彦先生が、『 信長はイエズス会に爆殺され、家康はすり替えられた』PHP2016年刊の中で 、次のように書いている。
「現実社会にある(どんな時代にもある)学歴差別、教養差別、田舎者蔑視の問題を抜きに歴史を語ってはならない。このことを書かないで、歴史を見ようとすると真実を取り違えてしまう。歴史とは、人間という恥多き愚かな生き物の記録だ。特に個人能力がものすごくある人間が、自力で這い上がったときに、この大きな壁にぶつかる。」(p111)


ヴァリニャーニは、信長から最大限の尊敬を受けた人間かもしれません。果たして信長が同時代人を尊敬することなどあったのか?といぶかられるかも知れないが、信長のヴァリニャー二への対応を見ていくとそう考えられるのだ。のちに徳川家康が、ウィリアム・アダムズやヤン・ヨーステンを相談役にしたように、信長に最先端の世界情報を伝えたのは、イエズス会東インド巡察師・アレッサンドロ・ヴァリニャーニであった。それくらい信長はこの西洋知識人の魅力に引き付けられた。

ヴァリニャーニとオルガンティーノには安土城下の一等地を与え、そこにセミナリオと修道院を建てることを許可する。それは城下にあった信長の居館の真ん前だった、とフロイスは書いている。つまり、信長はヴァリニャー二に会いたくなったら、すぐ行けるところに住まわせたのだ。その建築費用も負担している。終始ヴァリニャーニを下にも置かぬといった待遇だ。

ヴァリニャーニはナポリ(イタリア)の名門貴族の家に生まれている。イエズス会の最高の教育機関ローマ学院(コレージョ・デ・ローマ)で神学・哲学・法学を学んだほか、パドヴァ大学で、当時ヨーロッパ最高の神学者(数学者)とうたわれたクリストファー・クラウビウス(1538-1612)のもとで数学を学んでいる。このクラヴィウスは、ローマ教会に宗教裁判にかけられて窮地に陥っていたガリレオ・ガリレイを大学に招聘したことでも有名である。それまでの天動説に対して地動説(=太陽中心説・ヘリオセントリクス)を唱えた天文学者たちの総帥(そうすい)だったのが、クラヴィウスである。

SNSIの六城雅敦著『隠された十字架・江戸の数学者たち』(2019年刊)によると、このクリストファー・クラヴィウスがグレゴリウス暦をつくったことが非常に大事で、コペルニクス以来の長いカトリックプロテスタント天文学上の戦いに、カトリック側がこれで勝利を収めた。宗派の正当性が、神術としての数学(天文学)の優劣で争われていたのである。アリストテレス以来の天動説を頑なに守り続けていたはずのローマ教会が、地動説を取り込んで、正確な太陽暦を作ってしまったのだ。

(引用開始)

-それまで使われてきたユリウス暦太陽暦とのわずかな誤差に悩んでいた教皇グレゴリウス13世が、新たな暦の作成を命じた。命じられたクラヴィウスが、期待に立派に応え、苦労して作ったグレゴリウス暦は、閏年(うるうどし)を適宜使う(4の倍数の年は366日とし、400の倍数を除く100年毎は365日)ことによって誤差を補正した。1582年に制定・施行されたこの西洋暦は、現在でも世界共通で使われている。日本でも明治4(1872年)に採用された。
このことで、時間の支配者としてのローマ法王の権威が復活した。時を握る者が絶対者であることの証明となった。(中略)
このようにして、暦作り(天文学)から数学が発達していったのである。ー

(引用終わり)

田中進二郎です。
クラヴィウスが作ったグレゴリウス暦を日本に最初に伝えたのが、1579年に来日した巡察師ヴァリニャーニである。おそらくまだ完成目前であっただろう、新しい西洋暦について、信長はヴァリニャーニから教わった。信長はすぐさまグレゴリウス暦の革命的意義を理解した。やはり信長は天才中の天才だったのだ。そしてなんと、ヴァリニャーニに教わった太陽暦を用いて、日食も予言していたらしい。

●信長は日食が起きると予言して当てたが、その日は本能寺の変の前日だった
気象予報士の饒村曜氏(ぎょうむら・よう)が次のような記事を書いている。一部割愛して引用する。


(引用開始)


織田信長の時代、京都で使われていたのは、日本に中国から伝わり、862年に導入された宣明(せんみょう)暦をもとにした京暦です。
これに対し、関東から東海地方で使われていたのが三嶋暦です。鎌倉時代から作られているという伊豆国(現在の静岡県)にある三嶋大社の暦師・河合家が作ったもので、自前の天文台で星や月を正確に観察し、それをもとに暦を作っていました。
このため、京暦とは、何度か日付けが食い違っています。

全国統一を目指していた織田信長は、天正10年(1582)正月に暦がバラバラでは困るとして、三嶋暦に統一するように朝廷へ申し入れるのですが、朝廷の権威を否定するものとして退けられます。
しかし、この年の6月1日に京都では太陽が6割も欠けるという部分日食が起きます。
古代において日食は重大な関心事です。
日食時に国家行事を行うと為政者の威信が傷つくとされてきました。
このため、日食を予想し、この日に国家行事を行わないなどの行動がとられました。また、日食の日光は汚れとされ、天皇の身体を汚れから遮るため御所を菰(こも)で包む習慣がありました。
日食は太陽と地球の間に月が入る現象ですので、月と太陽の運行をもとに作られる太陽太陰歴では日食を予想でき、暦にもその旨が記入されます。
しかし、天正10年6月1月(西暦1582年6月20日)の日食は、京暦では見逃しとなり、御所を菰で包みませんでした。
このため、織田信長は、日食を表現している三嶋暦のほうが正確で、優越性がはっきりしているとして、信長は再度朝廷に暦統一問題を持ち出します。
しかし、翌2日(西暦では6月21日)、本能寺の変によって明智光秀に討たれ、三嶋暦による統一はなりませんでした。本能寺の変によって、三嶋暦も運命が大きく変わったのです。
(中略)
日本に渡来した宣教師(ヴァリニャーニ)からいろいろな知識を学んでいた織田信長が、西暦の変更について知っており、暦に強い関心を持っていた可能性は十分あります。
多くの人が意味を理解していなくても、織田信長だけは本質を理解していた可能性があります。
しかし、信長が主張する通りに日食がおきると、朝廷やその周辺の人々、及び、明智光秀らにとって、織田信長は魔王であると実感したのではないでしょうか。

本能寺の変の約100年後、貞享2年(1685年)に宣明暦から渋川春海によって作られた貞享暦(じょうきょうれき)に変わっています。

(引用終わり)

田中進二郎です。
明治維新に先立つこと290年前に、またヨーロッパでグレゴリウス暦が制定されるより1年早くに、信長はヴァリニャーニから教わっていた、ということが重大なのです。

信長は1573年に足利義昭を京都から追放した年に、元号を「永禄」から「天正」に改元させている。「天が正しくなる」で「天正」だ。「みんな命令には平和に従え」の「令和」よりずっといい。
しかし、「天正」もやめよう、元号自体やめよう、段階を踏んで、日本を西洋暦で統一しようと、超合理主義者の信長は考えていた。

しかし、ヴァリニャーニに私淑した信長を裏切ったのがイエズス会だ。京暦廃止を要求してくる信長に危機感を募らせる朝廷を操ることを考えついた。
当時最高のヨーロッパ知識人の一人だったヴァリニャーニはイエズス会の力で日本の絶対君主である信長を抹殺することに決めた。

田中進二郎拝

www.snsi.jp



gyou.hatenablog.com