前田英樹トークセッション

ジュンク堂にて夜7時より前田英樹のレクチャーを聞く。

「言葉と記憶−詩の行為をめぐって」

「言葉が、なぜ、どのように在るのか、という問いは、私にとって考え続けるほかない中心課題だが、<詩>はまたそのなかの中心課題として厳然と在る。そのことを語ってみたい。」とある。

 とてもよかった。前田英樹さんは以前から注目していた。5年ほど前に小林秀雄論やセザンヌ論をはじめ片っ端から前田さんの本を買って読んでいたが、ベルクソンを正確に理解しないと歯が立たない感じがしていた。おそらく日本でベルクソン小林秀雄をもっとも的確に理解している思想家であると思っていた。今日の話を聞いて全体の見通しが解ってきた感じ。

 気むずかしくてこわそうな哲学者を想像していたが、とてもユーモアに満ちソフトでダンディーな万年青年の雰囲気。ますます好きになった。たまたまトークマスターを持っていたので、こっそり録音した。以下、メモメモ。

 レクチャーのポイントは、人間の言語活動には2つの傾向性があるということ。散文的傾向と詩的傾向である。これが人間の生の二重性。これを空間の側面からいえば、知覚と感覚の二重性。知覚は、より良く行動するために、有用に生きるためにある。知覚は一般観念に結びつき、思考を可能にする。よって、知覚は散文的傾向性に関与する。

 一方、感覚は、行動の目的や能動性とは関係がない。あくまで受動的であり、身体に否応なく流入し体中に拡がり、感情となって消えていく。よって、知覚のように思考へと発展していくような発展性はない。これが記号化されたとき、詩が生まれる。詩的傾向性の出現である。

 この二重性を今度は時間の側面から眺めるとどうなるか。ここから、ベルクソンの有名な逆円錐の話に入っていく。生命の最も重要な特徴である記憶。記憶には複数の水準が共存しているということ。収縮と弛緩の無数の度合いが複数の記憶の水準をつくりだす。逆円錐の最大の底面には宇宙全体の全ての過去の全ての細部、全記憶が現存している。特殊な放心によってこの最大底辺に至ることは可能である。空海はこのことを知っていたらしい。彼は詩をよく書いた。如来のレベルがこの最大底辺。うーん。ベルクソン空海真言密教が連動しているとは・・・・。真言とは人間の詩的傾向性の極限のことか?詩の重要性は本居宣長も強調していた。

 記憶の収縮によって、記憶が様々なレベルに区分されていく。たとえば、反射的行動。飛んでくる石を避けるときには、世界は2つに区分される。危険を避けるか避けないかの2つ。これに対して、誰かを誘惑しようと近づくとき、行動はかなり複雑になる。潜在性の度合いによって記憶の区分も複雑化する。ここで「相互浸透」という言葉を使っていたが、これはどういう意味か。

 一般観念が生成される記憶の水準から、思考や散文が生まれる(散文的傾向性)。一方、感覚から記号へと直接いくときに、詩が生まれる(詩的傾向性)。この二重性は人間にとって避けがたい。むしろ両方が必要。(たとえば、詩の中にも散文的傾向は入っている。逆も同様。)

 知覚の記号に結びつく収縮が散文と思考を生む。感覚の記号に結びつく収縮が詩を生む。


 芭蕉の俳句のなかに、この潜在性の水準の違いを発見することができる。


 閑かさや岩にしみ入る蝉の声


 この最終稿に至るまでに、2つの案があったらしい。

 山寺や石にしみつく蝉の声(第1案) これは知覚のレベルである。

 さびしさや岩にしみ込む蝉の声(第2案) これはやや身体を貫くレベルの表現。

 これらの句に対して、「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」には、天地を貫く最も潜在的なレベルが表現されている。

 ところで、前田英樹は、真夏のカンカン照りの昼下がりに蝉が激しく鳴いているときが一番閑かである、といっていた。これに比べて秋はうるさい、と。

 今日の話にはソシュールの話がすっぽり抜けていると誰かが質問していたが、ソシュールとの関連性は、言語記号への転換に関連しており、いま執筆中の言語論に書く予定とのこと。