偏った可視化は大きな弊害をもたらす洗脳ツールとなることに注意しよう



「顔を見られたくない、隠していた方が楽」
「マスクしてない人と話したくない、他人の息をかけられたくない」
「店員の飛沫がかかったフラペチーノを受け取りたくない」


これらはコロナ対策後遺症であって、コロナ後遺症よりも深刻だと思います。
この感覚ではとにかく生きづらい。可哀想です。何とかしたいです。


でも3年にわたってこれだけ恐怖を煽られて、スパコンの飛沫シミュレーション映像を繰り返し見せられたらこういう感覚になってしまうのもある意味当然なわけで、政府マスコミ医クラは煽ってきたのと同じ熱量でこの後遺症に向き合わないといけない。


もちろん2019年までだって、他人の飛沫をあえて浴びようなんてしてなかったし、はっきりわかるくらい浴びたら不快というのはあった。でもその程度だった。そこに戻らないと。


何でもかんでも可視化すればよいわけではなくて、見えない方がいいものもたくさんある。私たちの体内や体表や生活環境には、夥しい数のウイルスや細菌や真菌が生息している。それを全部可視化したら気持ち悪くて生きていけないけど、それが見えないから生きていけている。菌やウイルスがどんなにいようがそれらをどんなに浴びようが、大多数は何の問題もない。


そんな中でスパコンの飛沫シミュレーションなんて、まさに過剰可視化社会の弊害。
小さな飛沫なんてそもそも気づきもしないし、いくら飛沫を浴びたって何の問題もないことがほとんどなのに、あの映像を見たら途端に素顔の人が怖くなる。気持ち悪くなる。


これまでの正常が、あの映像ひとつで異常になる。


おかしいと思います。本来は何の問題もないはずです。
目に見えない、肌でも感じられないその飛沫に、感染性のウイルスが含まれている確率はどれだけか?含まれていたとして、自分が感染発症する確率は?他人にうつして重症化死亡する確率は?
日常生活での一つ一つの場面では、特に非流行期においては天文学的に低い確率でしょうし、そもそもいつまでそんな確率論に従って生きればよいのでしょう?


ウイルスや細菌や真菌は決してなくならないので、キリがない。そうして確率を気にする生き方を続けていたら自分も社会ももたなくなる。


みんな過剰可視化で生活や人生をめちゃくちゃにされないように気をつけた方がよいのでは。
2019年までを思い出しませんか。今のコロナに一体どれほどの意味があるのか考え直しませんか。


知らぬが仏、見えぬが仏。