RK熊本講演会「検察とメディア、そしてエセ右翼が日本の病巣」

昨日のRK熊本講演会は内容が濃くて勉強になった。いつもそうですが。

加藤清正暗殺説。家康はなぜ加藤清正を暗殺しなければならなかったか?

このコシミズさんの話をテーマにした歴史推理小説が書けるかも。

小沢冤罪事件についてはとてもわかりやすい解説でした。この謀略事件の背景がよくわかった。

いま日本は重要なターニングポイントにあるってことか。

(1)このまま売国奴政権に従って対米従属をつづけ、ジョセフ・ナイ等が計画している極東戦争へと進むのか、
(しかし、このジョセフ・ナイさんって悪賢い顔してるなぁ。爬虫類的と言うとウチのカメが怒るか(・。・)ぷっ♪)

それとも

(2)アメリカからの属国から離脱してアジアの国々と平和な国土を取り戻して繁栄(スライブ)していくか、

の分岐点がちょうどいま現在なのです。


そのためには、米国戦争屋勢力とそれに追従する日本側の受け皿である悪徳ペンタゴンを排除しながら中国やロシアとの友好関係を築き、諸悪の根源(病巣=地下銀行など)を断ち切るための「宗教課税」を実現しようとしている小沢一郎という政治家に対する国家的謀略事件の全貌を白日の下にさらす必要がある。

これを実現するためにはまず、今回の検察審査会による「強制起訴」なるものが実は検察が巧妙に仕組んだ謀略であった可能性について実態調査するための委員会(法務委員会秘密会)によって早急に真実が暴かれなくてはならない。この委員会の委員長は小林興起民主党議員だそうです。

小林興起さんには是非がんばってほしい。

輿水さんとのツーショット写真をひろった。

ところで、マスコミはこの法務委員会秘密会についてはダンマリを決め込んでいる。というか隠蔽しようとしているようです。野田君も法務委員会秘密会の開催を阻止しようと動いているのか。

【朝日・読売・TBSは、「最高裁(=検察審査会)の架空議決」隠ぺいに加担!】http://civilopinions.main.jp/2012/05/516.html


今回の検察審査会による強制起訴がエアー審査会(架空の議決)によることがバレたら日本社会が根底から覆(くつがえ)るような大問題になっちゃうのは確実。



【参照】

●1/2小沢一郎氏周辺事件が示す民主主義の危機(検察審査会のでっちあげ)

植草一秀氏の話を聞くと、小沢一郎があれほど執拗に攻撃される理由がわかる。
http://www.youtube.com/watch?v=77ZDghq-Rws



アメリカ研究学会
http://american-studies.seesaa.net/article/144372270.html

小林興起さんは我が家と同じ団子三兄弟のお子さんがいらっしゃるのですね。上記研究学会のサイトの画像をいただきましたm(_ _)m

日本のために、そしてご家族のためにここは是非「国士」になってくださいね。


加藤清正暗殺説について
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慶長15年(1610年)、徳川氏による尾張国名古屋城の普請に協力した。慶長16年(1611年)3月には二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋したが、帰国途中の船内で発病し、6月24日に熊本で死去した。享年50(満49歳没)。

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3

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わかりませんが二条城で徳川家康豊臣秀頼の会見後
急に病を発し亡くなります。
実に都合のよいタイミングで死んだので
「暗殺説」が噂されてきました。

仮に暗殺が真実なら間違いなく家康が黒幕です。
この時期に親豊臣派の大名が都合よく亡くなっています。
浅野幸長などもその典型です。)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1214940807

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生涯、秀吉の恩を忘れなかった加藤清正はこの二条城会見に己が役目を終えたかのように熊本に帰国後、大坂の陣を待たずに病没した。享年五〇歳。
 その死は二条城にて家康が出した毒饅頭を秀頼に代わって食した説を筆頭に毒殺説を唱えるものが多く、故隆慶一郎氏は著書の「影武者徳川家康」・「捨て童子松平忠輝」にて清正の死を徳川秀忠が放った裏柳生の忍びがイタリアから密かに伝えられた「錐刀(すいとう)」と呼ばれる針の如き暗殺用の短刀で刺された際に、狙った心臓ではなく、清正の背の高さから(実際には清正はで短躯であった)腸を刺し、腹膜炎に苦しんで死ぬ事になったとしている。
 会見直後にして、開戦前の死は自然死と考えるには余りに徳川に都合が良過ぎた。そこが呼んだ推測はとてつもなく大きい。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/8151/korosaretahitotachi3.html