[3148]古村君の新刊本が、明日、発売です。
投稿者:副島隆彦
投稿日:2021-05-27 20:50:48副島隆彦です。今日は、2021年5月27日(木)です。
私は、自分の金融本を書き上げることで、精一杯で、他のことに手が回りません。
私たちの研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)君の、最新刊の『悪魔のサイバー戦争を始めるバイデン政権』が、明日、5月28日に発売されます。
悪魔のサイバー戦争をバイデン政権が始める今日のぼやきの広報ページを見に行って下さい。古村君本人が、今度の本の、まえがき、目次、あとがきを載せています。それらを読んで、この本を買って下さい。
読めば、今の最新のアメリカの政治状況がどうなっているのか、が はっきりと分ります。古村君は、自分でアメリカの政治論文や、高級政治言論誌を読んで、書いている。だから、出典と典拠がしっかりしています。 政治学や、アメリカ研究をやっている人たち以外でも、どんどん読み進められるように、平易に書かれています。私、副島隆彦は、今は金融本の他に、「物質と 霊魂(れいこん)の2元論」に、ずっと嵌まっていまして、この研究をずっとやっている。この世界、この世、人間世界は、「物質(マター、matter )と、魂、霊魂( soul ソウル、spirit スピリット)の 2つから成っている」という、アリストテレスから、ずっとデカルト、カント・・・にまで、つながる、2元論(にげんろん。デュアリズム dualism) で出来ている。
物質(物体)は、誰でも分る。この世界は、物体、物質で出来ている。だが、もう一つの、霊魂、霊 と = mind(マインド 思考、知能 精神)も有る。このように考えると、今の私たちの世界でも、立派に違和感なく通用する。
だから、「この世は、① 物質 (肉体もここ)と ② 霊、霊魂=思考、知能、精神(ドイツ語で、Geist ガイスト) の2つから成る」と考えると、大きく妥当する。だから、物質主義(マテリアリズム、materialism 唯物論)だけで、押していっても、どうしても、物質で無いもの、にぶち当たる。それが、私たちの、思考(mind 考えること)あるいは、知能(インテレクト intellect )だ。 これは、古くから、霊、霊魂として知られてきた。
だから、「物質と 霊魂」の 2つを実在(現実に存在するもの。実体、サブスタンス)とはっきりと認めることで、神(あるいは天 heaven 。中国なら、天帝=てんてい= )を、脇に追いやることが出来た。神はもう要らない。神を消滅させることが出来た。
フランス語なら、dieu デュー、ドイツ語で got ゴット、英語で god ギリシア語では、Zeus ゼウス そのあと、ローマ語で Deus デウス である。
このことをデカルトが、「我れ、思う(故に)我あり 」 ‘ Cogito , ergo , sum ‘ と「方法序説」と、「哲学原理」ではっきりと書いてしまった。
英語なら、’I think , therefore I am . ' 「アイ・スインク・ゼアーフォー・アイ・アム 」「私は、考える。だから、私は、存在する」 と言いきった。 英語は、 I am . で、「私は、(ここに)いる」だ。 私は、ここに存在している、生きている。実在している。このことは
疑えない、という大きな宣言だ。自分が、思考 し、思考することが、自分の存在(実在)を、証明している。いまさら、神さまによって、自分が作られた、と、考える必要は無い。 神さまも、実は、人間が作った 幻想なのだ、と。
このように、デカルトは、考える(思考する)自分を、すべての中心に置いた。そして神を追放した。
だから、デカルトは、スウエーデン国のクリスティーナ女王に招かれて呼ばれて行った先のストックホルムで、ローマ教会(エイズス会)の司祭に、ヒ素で暗殺された(46歳で死)。「物質と 霊魂(思考) の 2つが、有る」と言いきることで、神(宗教)の類(たぐい)を、人類は、全て脇にどかすことが出来た。一切の宗教は、もう要らない。
それでも、欧米の現在の最先端の 人間の脳(頭、思考、mind マインド)についての研究である 神経生理学(しんけいせいりがく。ニューロ・フィジオロジー neurophysiology )では、神経細胞の先端の感覚細胞であるニューロンが、知識、情報を伝える シナプスを、化学シナプス と 電気シナプスに分けて、あくまで、電気信号 と 化学物質 (脳内物質)として、今も物質主義(マテリアリズム)一点張りで研究している。
日本の旧来の、脳科学(のうかかく)とか大脳生理学(だいのうせいりがく)と言うのは、欧米学界には存在しない。茂木健一郎(もぎけんいちろう)のような、食わせ者の、詐欺師の学者が、もう、生き残れる余地はない。「クオリア」なんか無かった。茂木は、このとこで、大いに恥じ入って、もう弁解も出来なくなっている。そのくせ、駄法螺(だぼら)の演説のだけは、あちこちで吹いて回っている。茂木は、江原啓之(えはらたかゆき)のような、同じ詐欺師の、霊能者(てれのうしゃ)と 合体することでしか生き残れない。「神憑(かみが)かり」の、そっちの方向にゆくならば、元々の自分に合致しているから、生き残れるだろう。私たちは、霊、霊魂が、人間の思考、知能、精神 と、同じことだと分かるべきだ。そうすれば、私たちは、このあと、「自分が、一体、どうやって、よりよく生きることが出来るか」を、自分で本気で考えることが出来る。それで、スピリュアリズム(精神世界重視主義 、spiritualism )を肯定しできて、霊、霊魂の存在 を、認めながら、自分の人生を大きく肯定し、近(きん)未来予測である、占(うらな)い、と呪(まじな)い を大きく肯定できる。これは、人類にこれからも必要だ。
いいですか。 mind マインドは、✕ 心 ではない。◯ 思考 だ。 ✕ 心の病気 なんか無い。総称して、mental illness メンタル・イルネス は、◯ 頭の病気、脳の病気、精神病 だ。
だから、✕ 心療内科というコトバも、廃止するべきだ。 ✕ 心の病気 なんか無い。 馬鹿なんじゃないか。この国の、脳(ブレイン、マインド)の研究をやっている者たちは。世界の学界と、本当に繋(つな)がっているのか。△ 脳科学というコトバも、もう欧米では通用しない。認知科学(コグニティヴ・サイエンス)を自称しながら、✕ 心(こころ)というコトバを、mind の日本語への訳語だ、と、専門用語として今も、恥ずかしげも無く、愚かにも、当たり前のように、使っている。その証拠は、今もそこらじゅう、科学雑誌の特集記事で、一面にある。
心、心と、本当に、低脳たちなのだ。それが、まさしく 脳の研究の専門家の集団だというのだから恐れいる。だから日本国は、土人(原住民とも言う)の国のままなのだ。この者たちは、恥を知れ、を、通り越して、今では崖から落ちた。私、副島隆彦は、25年前(1996年)に、このことをはっきりと指摘した。近(きん)未来の予測、予言である占いは、宗教ではない。宗教団体は、すべて、もう不要、不用である。宗教(religion レリジオン)が悪いのではなくて、そこに、職業的なお坊さま(僧侶、モンク、クラージーマン)階級が出現して、人類に寄生するからいけないのだ。
職業的な僧侶、坊主を、食べさせるために、人類は、どれぐらいのたくさんの、貢ぎ物、供応、法要、寄付 をしなければいけなかったことか。何千人、何万人もの僧侶階級を食べさせることで、宗教教団は、どこも 底なし沼のように腐敗、堕落した。
だから、プロテスタントの一種である ユニテリアンは、僧侶、司祭(ビショップ)を否定した。そして、レイマン(layman 俗人、平信徒)たちだけの宗派になった。司祭の代わりにいる人は、皆の代表で、世話役のような人だ。この世話役しか認めない。このことが、偉大なことだったのだ。
クリスチャンの中の、ユニテリアン派は、「イエスは、人間だ。人間の男だった」と言いきった。そして、「自分たちは、このイエスという、すばらしい人の生き方とコトバ(言行録としての新約聖書)を信じて、認める。という考え方に立った。
この欧米のユニテリアンと同じく、日本の創価学会にも、職業的な僧侶はいない。認めない。1970年ごとに、日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)の総本山の、大石寺(たいせきじ。私は、一度だけ行ったことがある)と、大喧嘩して、分裂したのが、本当に良かった。 その後、独自の道を歩いたから、創価学会は、その分、腐敗と堕落と、官僚主義(ビューロクラシー)に 陥らなくて済んだ。
今や、あらゆる種類の職業的な僧侶の存在は、悪(あく)である。もし自分の信仰、信念に精進、研鑽するのならば、ひとりの人間としてやればいい。よくて同行衆(どうぎょうしゅう)までで百人ぐらいが限度だ。
思考=霊魂 は、いくら大量に集めても、たとえ1兆テラバイトの情報量に集積しても、質量(しつりょう。mass 。重さ weight )を全く持たないようだ。質量(重さ)の無いものは、物質では無い。まさしく、幽霊、霊魂である。 つまり思考=霊魂は物質ではない。このことは、70年間のコンピュータ・サイエンスの発達で、明らかになった。だからデカルトが唱えた、「物質 と 霊魂(=思考)の2元論」が、いよいよ証明された。
私、副島隆彦は、たかが「通信屋」のくせに、通信機械しか、作れなかったくせに、アメリカの、GAFA+MS(big tech ビッグテック )の5社が、これほどに威張って、人類を支配するほどになっていることが不愉快だ。これは今や悪である。
これらMS(マイクロソフト、ビル・ゲイツ)を筆頭とする、通信屋は、やがて人類の 公共道路 である公共財産(パブリック・プロパティ public property )にされて、世界的に強制的に、公有化されてゆくだろう、と強く予言する。 いつまでも、人類全体の通信機能が、私企業の個人財産、というわけにはゆかない。それはそんなに遠い先のことではない。
人工知能(AI エイアイ。 アーティフィシャル・インテリジェンス)は、出来ない。完成することはない。今もない。無いものは無い。あるのは、AIもどき たちだけだ。それらは、確率微分方程式(かくりつびぶんほうていしき)という数学、それもインチキ数学 で出ている、方向性(トレンド)を示すためのコンピュータだ。 あとは、人海戦術(じんかいせんじゅつ)で、何万人もの、コンピュータ・プログラミングのSEたちを集めて、コツコツと、自動翻訳機(ATM)を作っている。マービン・ミンスキーという、’AIの父‘ と呼ばれた、MIT教授だった(2016年、5年前に死んだ)学者が、「人間のように考えることの出来る AIが出来るのには、あと500年掛かる」と、正直に28年ぐらい前に言ったのが、正しい。 私、副島隆彦は、このことを、今から、
25年前に、「英文法の謎を解く」(全3巻、ちくま新書、1996年から刊 )の中に書いた。それらを、近く、復刊、復活させる。私は、ずっと、我慢に我慢で、生きて来た。だから、霊、霊魂を認める スピリチュアリズムは、宗教ではない。断じて宗教(レリジョン)ではない。私たちは、大きな勘違いをしてはならない。スピが入っている人たちは、宗教団体に入らないから良いのだ。宗教団体に入ったら、いろいろと騙されるだけだ。その団体の教義(ドグマ)に従わなければいけない。お金もたくさん献(ささ)げなければいけない。
私たちは、あらゆる、人騙(ひとだま)しに引っ掛かってはいけない。私たちは、徹底的に、注意深く、用心して、気をつけて、何度でも考え直して、あらゆる誘惑とダマシに陥(おとしい)れられることがないようにしないればいけない。
私たちは、どんな宗教教団や、組織にもはいる必要は無く、強く生きることが出来る。自分を大事にして、自分だけを頼りにして生きるべきだ。「自己への信頼」 ’self reliance’ セルフ・リランアンス) これが、スピリチュアリズムの 第1原理である。このことを、ラルフ・ワルドー・エマーソンが、1840年に高らかに宣言した。エマーソンこそは、スピリチュアリズムの創業者だ。そして、この考えは、カントのトランツェンデンタリスムス(ドイツ語 Trantzendentalismus 超越=ちょうえつ=主義 ) と同じことだ。
故に スピリチュアリズム = トランツェンデンタリスムス (イマヌエル・カントの超越主義)である。
このトランセンデンタール(英語なら)は、「超越的」 の他に、「先験的(せんけんてき)」とか、「超自然的(ちょうしぜんてき)」とか、日本の カント学者たちが、この100年間の間に、苦労して訳してきた。
「合理(ラチオ、ratio) と 理性(リーズン、reason )」ばかりで、啓蒙思想(エンライトンメタリズム)からあとの近代思想はやってきた。欧米近代に、打ち負かされた、日本の学校教育も、この「合理と理性」だけを、大看板にしてやっている。それ以外のものを廃絶した。
だが、合理と理性、 だけでは、どうしても解決しないことが、人間世界にはたくさん有る。だから、カントは、それを「エイ、ヤー」と越えて行く、トランセンデンタール transcendental、超越すること、が必要だ、と真剣に考え抜いて、提出した。だから、フランス大革命(1789年から)の、燃えさかる 神(dieu デユ-)に取って代わって、合理と理性と、もう一つ、 プロビデンス(providdence これを 摂理=せつり=と訳した )を、人類の新しい指導理念とした。
この時できた、「フランス人権宣言」は、このプロビデンス(摂理)に向かって、「すべての人は人権(ドロワ・ド・オム)を持つ」と、高らかに宣言している。
フランス革命の 燃えさかる民衆の熱狂と狂乱の最中(さなか)に、あって、同時代人のカントの思想は、この人類(ヨーロッパ人)が新しい段階に入った、フランス革命を支持しながらも、それでも、さらに懐疑的な精神で、それとは反対の、それでも合理と理性だけは済まない。その他に、どうしても魂(たましい)、霊(れい)のようなものが実在する」と、書いたので、それで、ヨーロッパの、優れた知識人たちに認められた。「合理と理性、だけは済まない」と。
日本の 大正、昭和、そして戦後も(新)カント学者たちには、遂に、この逆転の、大きな意味が、分らないまま、今に至る。難解な論文ばっかり日本語で書いて、まわりを煙に巻いただけだった。本人たちは、カント先生は、「合理と理性」の研究をずっとやっている人だ、と思って、自分たちは、コツコツとドイツ語で読んできた。
なんとかカントの本の翻訳だけは、緻密に仕上げた。ところが、ここに、超越的(トランツエンデンタール、とトランツエンデントのふたつがある、と騒ぎ続けた)が、出てくるものだから、困り果てて、謎が解けないままで、現在(2021年)に至る。あーあ、大変なご苦労様であった。威張り腐って、「私は日本の大秀才のはずなのだ」と密かに、自惚れて、ドイツ哲学なんか志すから、こんなことになってしまった。可哀想といえば、可哀想な人たちだ。
カントの、霊魂、霊(ゼーレ)を認める、合理主義、純粋理性だけでは済まないことの表明を、アメリカ人のエマーソンが、60年後に、自力で、ドイツ語で読み破った時に、スピルチュアリズムが出現した。このことを、副島隆彦は、この40年掛けて、ようやく分った。
今日は、これだけしか書きませんが、私、副島隆彦は、いよいよ、自分の人生の完成、終わりに向かって、この地上で、一番大きな図式で、人類(人間世界)を捉(とら)えつづあります。
今日のぼやきの 古村君の本の紹介の 文章 を読みに行って下さい。
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副島隆彦拝