五木寛之ファンとして、ずっと読みたいと思っていた、いまだ未完成の大作『青春の門』。
第1部から第8部まで一気に読了。
今夜は、五木寛之『青春の門』(特に筑豊篇)にゆかりの歌「織江の唄」(山崎ハコ)を聴いてみたい。
(以下、極私的北九州体験)
この歌を聴くと、『青春の門』「筑豊篇」とともに、自分の幼年時代の思い出が走馬灯のように巡って、胸が切なくなってしまう。
幼年時代、北九州の若松に住んでいたことがある。父親の転勤で、三重県四日市から、小学校1年生から4年生の4年間だけ、北九州に移り住んだ。
この歌に出てくる遠賀川(洞海湾につながる支流)のすぐ近く(若松区二島)に住んでいた。父親がガラスの技術者として勤務する日本板硝子の社宅だった。
二島(ふたじま)からバスで若松市街の修多羅(すたら)小学校に通っていた。毎日、洞海湾工業地帯の炎と煙を見ながら。(八幡製鉄の立派な高炉があった)
修多羅小学校の担任は大場先生だった。大場先生は九州美人でとても魅力的だった。たぶん、もう亡くなっているだろう。
倉重さんというとても痩せてかぼそいかわいそうな女の子がいた。傘が買えなくて、雨の日はいつも濡れていた。いまどうしているだろうか。
同級生の何人か(木下君も)は、若いうちに亡くなったときいた。悲しい。
江川君とは学校の帰りに道草食ってクワガタを捕りに行ったりしたね。
当時住んでいた社宅のすぐ近くを流れていた遠賀川(田川よりずっと下流側)では、カブトガニを捕ったりしたこともある。
書道の秀才で、ちょっとやんちゃな庄野君と遠賀川で遊んだことも、たった今思い出した。
庄野君、元気にしてるか、生きてるか?
(以上、極私的北九州体験終わり)
遠賀川は、昭和の初期まで「川筋者」で賑わった。物語の主人公の父親・伊吹重蔵の父(信介のおじいちゃん)が活躍したころ。
若松からは、伊吹信介や織江が住んでいた炭坑やボタ山のある筑豊の田川や飯塚とは距離があるが、この物語の舞台の雰囲気は分かる。
筑豊の炭坑から出る石炭が、明治、大正、昭和初期の日本の産業のエネルギー源を支えた。石炭から石油への極端で拙速な切り替えによって、日本の石炭産業は急速に没落。
日本の産業を陰で支え続けてきた筑豊は、唐突に切り捨てられた。
なんだか、山崎ハコの歌を聴きながら幼年時代の感傷に浸ってしまった(・。・)ぷっ♪
『青春の門』の「筑豊篇」を読んだ人は、いや、読んでない人も、山崎ハコのこの歌を涙なしには聴くことはできないだろう。
北九州弁が、幼年期の思い出と重なって、泣いてしまいます。
●織江の唄 山崎ハコ
山崎ハコで一番好きな歌「望郷」も是非聴いてほしい。
山崎ハコさんは大分県日田市出身。
当時、「中島みゆきのライバル」と言われていた。
●山崎ハコ ♪望郷