「公明の 正体見たり 三要件」

公明党の反対のポーズは、やはり猿芝居だったようです。




http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-54a2.html
●公明の 正体見たり 三要件
公明党の支持母体である創価学会は、集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈変更問題について、次のコメント発表している。

「私どもの集団的自衛権に関する基本的な考え方は、これまで積み上げられてきた憲法第9条についての政府見解を支持しております。

したがって、集団的自衛権を限定的にせよ行使するという場合には、本来、憲法改正手続きを経るべきであると思っております。

集団的自衛権の問題に関しては、今後の協議を見守っておりますが、国民を交えた、慎重の上にも慎重を期した議論によって、歴史の評価に耐えうる賢明な結論を出されることを望みます。」

憲法は国の基本法

政治権力が暴走することを防ぐために存在する。

国家の基本路線を定め、基本的人権を守り、民主主義を守るために存在する。

政治権力の暴走を許さない。

その歯止め、砦が憲法である。

だから、憲法に第99条の条文が置かれている。

第九十九条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

日本国憲法は、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」に憲法尊重・擁護義務を課している。


憲法があり、集団的自衛権の問題について、政府が正式に見解を示してきた。

これが、憲法の内容そのものである。

その解釈を変えるというなら、憲法そのものの規定を変える必要がある。

創価学会が示したコメントは、このことを示している。

あたりまえのことだ。

憲法改正を主張する憲法学者でさえ、解釈を変えての「なし崩し改憲」には強い反対の考えを表明している。

憲法が国の基本法であり、あらゆる法律のなかで、もっとも大切なものであるから、いい加減な対応は許されない。

まともな判断能力を持つ人は、例外なく、こう考える。


「なし崩し改憲」を許してはならない、との世論が強まるなかで、安倍晋三首相は、強引に憲法解釈を変える考えを示してきた。

しかし、連立与党の公明党を支える創価学会が、「なし崩し改憲」に反対の見解を表明して、安倍政権の暴走にブレーキをかける気配を示した。

公明党は「平和と福祉」の看板を掲げているから、さすがに、米国が創作する戦争に加担する道を開く、集団的自衛権行使容認の憲法解釈変更には、体を張って抵抗すると期待する人は少なくなかった。

恐らく、公明党支持者自身が、そう考えていることだろう。

安倍政権が、どうしてもなし崩し改憲に突き進むというなら、連立与党からの離脱も辞さない。

ここまで公明党は腹を括るべきだと考える公明党支持者も少なくはないだろう。


ところが、現実はまったく違ったようだ。

集団的自衛権の行使を容認する「三要件」が、実は公明党の側から自民党に提示されていたとの情報がスクープされた。

旧聞に属するかも知れないが、西日本新聞のスクープである。

本来なら、このスクープが駆け巡り、安倍政権の「なし崩し改憲閣議決定」が空中分解するところである

ところが、他のメディアがこの問題を拡散しようとしない。

御用放送局に堕してしまっているNHKなどは、ほとんど大本営の様相を示す。

西日本新聞記事をもとに、その概要を紹介する。

6月13日の与党協議会で自民党高村正彦副総裁がA4サイズの紙を配った。

集団的自衛権の行使はできない」と結論付けた1972年の政府見解の一部を引用し、行使を認める逆の結論を導き出す私案だった。

公明党のなかで、なし崩し改憲にもっとも強い反対の意向を示しているように見えるのが山口那津男代表である。

その山口氏が「憲法解釈の一番のベースになっている」と尊重してきた72年見解を援用する形で、限定容認と読み取れる原案を、

公明党北側一雄副代表が、内閣法制局に作成させたと、西日本新聞は伝えている。

これが、自民党の高村副総裁が、6月13日の与党協議会で提示した、

自衛権行使の「新3要件案」

なのだという。

山口代表の真意がどこにあるのかを断定することは難しいが、全体としては、すべてが「三文芝居」、「猿芝居」、「出来レース」である疑いが強まっているのである。

政権与党にとどまり、大臣ポストの配分を受け、公共事業利権の配分権を獲得する「実益」は実に大きいのだろう。

また、公明党が野党に転落すると、創価学会の課税問題度が、一気にかまびすしく論じられる可能性もある。

だから、公明党はしょせん「下駄の雪」なのだとの見方もあった。

少なくとも、現在までの経緯を見る限り、「出来レース」説を否定することは難しい。

「花より団子」ではないが、「思想より実益」で政治が動かされれば、国家は、再び道を誤ることになるだろう。