浅川巧の墓

ソウル市内での打ち合わせのあと、夕方のソウル旧市街での会合まで時間が空いたので、浅川巧のお墓参りをしようと思い立った。

朝鮮を愛し朝鮮の人々を愛し、朝鮮の言葉を愛し、朝鮮の山々と朝鮮の工芸に帰依した日本人。林業技師の仕事をしながら精力的に朝鮮の民芸の美しさに魅入られ、その研究に身を捧げた。そしてわずか42歳で朝鮮の土となった日本人。この日本人のことがいつも気になっていた。

地下鉄でソウル郊外の清涼里駅(チョンニョンニ)まで行く。ここからタクシーで20分から30分くらいのところに、忘憂里という公園墓地がある。名称は忘憂里共同墓地(マンウーリ・コンドンミョジ)。朝鮮・韓国の人びとに慕われ愛された浅川巧がここ忘憂里の墓地に眠っている。




浅川巧(あさかわ たくみ)(1891年1月15日〜 1931年4月2日)は朝鮮の工芸・陶芸に関する先駆的研究者である。朝鮮半島の植林事業と研究を精力的に行いながら朝鮮の技術文化、とくに李王朝期の陶磁器と木工を研究した。民芸運動の中心人物でもある柳宗悦に朝鮮の技術文化のすばらしさを伝え、影響を与えた。今から100年ほど前にこんなにすごい人がいたのだ。

忘憂里は小高い丘というよりも緑豊かな山である。ハイキング客が多い。たどり着くのに苦労する。浅川巧の墓地は「ヤクスト=薬水(薬効があるという鉱泉水)の出るところ」が目印、ハイキングしている人に「ヤクスト」といえば教えてくれる筈。

このヤクスト(湧き水)で渇いたのどを潤す。

「韓国の山と民芸を愛し,韓国人の心のなかに生きた日本人,ここ韓国の土になる」と刻まれている。