ウクライナ大統領がロシア大統領に交渉を要請 (櫻井ジャーナル)

プーチンの今回の軍事作戦の最大の目的は、ウクライナに巣くうDSとその配下のネオ・ナチ勢力の排除。

ゼレンスキーは、斬首作戦を恐れて命乞いをしている。


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ウクライナ大統領がロシア大統領に交渉を要請

 ウクライナのボロディミル・ゼレンスキー大統領はロシアのウラジミル・プーチン大統領に対して交渉の席に着くことを求めている。ロシアのセルゲイ・ラブロフ外相は交渉の用意があるとしたものの、武装勢力が武器を置くことを条件にした。

 今回の軍事作戦でロシア政府が最も重要視しているのはネオ・ナチの排除だろう。アメリカの支配層は1930年代からナチスをはじめとするファシスト、第2次世界大戦の終盤からはマフィア、1970年代からはイスラム系のカルトとも言うべきワッハーブ派ムスリム同胞団、あるいは麻薬業者や少数民族を手先として利用してきた。

 第2次世界大戦後、アメリカはナチスの幹部や協力者の逃亡を助け、保護し、場合によっては利用してきた。保護する傍らでさまざまな訓練を行い、ソ連が消滅した後には出身国、あるいは親の出身国へ送り返してアメリカの工作に使っている。

 ウクライナのネオ・ナチはステファン・バンデラの信奉者で、OUN・B(ウクライナ民族主義者機構バンデラ派)の系譜に連なる。この一派はOUNの中でも反ロシア色が濃いグループで、そのリーダーがバンデラだった。

 このOUN・Bをイギリスの情報機関MI6のフィンランド支局長だったハリー・カーが雇うが、その一方でドイツが資金を提供、バンデラの側近だったミコラ・レベジはクラクフにあったゲシュタポ(国家秘密警察)の訓練学校へ入る。OUN・Bは、いわばMI6とゲシュタポのハイブリッドだ。

 1943年の春にOUN・BはUPA(ウクライナ反乱軍)として活動を始め、その年の11月に「反ボルシェビキ戦線」を設立。大戦後の1946年4月に反ボルシェビキ戦線はABN(反ボルシェビキ国家連合)になる。

 ABNは中央ヨーロッパカトリックで支配しようというインターマリウム構想の勢力と連合、バンデラの側近だったヤロスラフ・ステツコが指揮するようになり、1948年にアメリカでは極秘のテロ組織OPCが設立され、アルバニア対する工作を最初に行う。この極秘組織とステツコたちは連携するが、ソ連のスパイだったMI6のキム・フィルビーからソ連側へ情報は伝えられていた。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 東アジアでは1954年にAPACL(アジア人民反共連盟、後にアジア太平洋反共連盟に改名)が組織されるが、このAPACLとABNは1966年に合体してWACL(世界反共連盟。1991年にWLFD/世界自由民主主義連盟へ名称変更)になる。この組織がCIAと緊密な関係にあったことは広く知られている。(Scott Anderson & Jon Lee Anderson, “Inside the League”, Dodd, Mead & Company, 1986)

 ウクライナのネオ・ナチを率いているひとり、「右派セクター」のドミトロ・ヤロシュは昨年11月から参謀長の顧問を務めているが、この人物は2007年頃からNATOの秘密部隊ネットワークに参加していると言われ、西側の有力メディアが売り出している「アゾフ大隊(またはアゾフ連隊)」を率いている人物はヤロシュの部下だ。

 現在のウクライナ体制はアメリカを後ろ盾とする暴力的なクーデターにより、選挙で選ばれた政権を倒して築かれた。そのクーデターの主体がネオ・ナチなのだが、それを認める人間はナチズムを支持していることになる。

 クーデターの際、キエフで治安部隊だけでなく市民をネオ・ナチが虐殺していたことは本ブログでも繰り返し書いてきた。クーデターで排除されたビクトル・ヤヌコビッチ大統領の支持基盤である東部や南部でも住民が惨殺されている。ドンバス(ドネツクやルガンスク)は東部、クリミアやオデッサは南部にある。ネオ・ナチによるオデッサでの住民虐殺は凄惨なものだが、西側では大きな問題になってこなかった。そうした状況がロシアの軍事作戦で変わる可能性がある。