このところ毎日電車の行き帰りのなかで中沢新一の流動的知性によって切り開かれようとしている「芸術人類学」に魅せられている。
ところで、中沢新一は技術の起源をどのように考えているのだろうか。ミズンらの認知考古学やモジュール理論の「技術的知性」の延長として現世人類の技術活動をとらえているようだ。そして、技術よりも芸術の方に重要性を見いだしているようである。これは僕の考えている「技術」とは少し違う部分がある。
ネアンデルタールの技術(たとえばルヴァロア技法)と現世人類の技術の根本的な相違をどう考えるべきか。