パフォーマンスだったオバマの広島訪問


オバマの「核なき世界を追求する」云々は、単なる美辞麗句で、実際は核兵器の積み上げに邁進している。

今年の5月27日にバラク・オバマ大統領が広島にやってきたとき、「核なき世界を追求する」などと誇らしげに語っていたが、アメリカは、2014年の段階で、今後30年間に9000億ドルから1兆1000億ドルを投入する計画を打ち出している。

●71年前の8月6日に広島へ原爆を投下した米国は今後30年間に1兆ドルを核兵器開発へ投入する計画
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201608060001/


オバマはきれいごとを言ってただけのようです。


スピーチだけは「上手」だけど中身は軽薄な男。

戦争屋ネオコン勢力からいつも脅されて内心ビクビクしながら生きている傀儡大統領でしかなかった。(そして今や、戦争屋ネオコンの傀儡ヒラリーにピッタリ寄り添っている始末。)

広島訪問も今となっては、大統領任期最後の自分の手柄にするための単なるパフォーマンスだったことが明らかになってしまった。

オバマの広島訪問が単なるパフォーマンスでしかないことは、2014年6月のノルマンディー上陸作戦記念式典で流れた原爆投下映像に対して、オバマはガムを噛みながら拍手をしていたことからも明らかだった。(同じ式典に出席していたプーチン大統領は、原爆投下の場面で十字を切っている。対照的だ。)

●ガムを噛みながら原爆投下に拍手をしたオバマ大統領が広島にやってくるらしい
http://d.hatena.ne.jp/gyou/20160525


被爆者たちは、謝罪しなくていいから広島に来てくれ、とオバマに懇願した安倍晋三オバマ以上に軽薄な策略にまんまと騙されていたことになります。

広島と長崎の被爆者たちは、オバマの「華麗なる」演出にただただ協力させられただけだったのだ。


今頃になって安倍政権とオバマの共同謀議に気がついても、遅すぎる。


「謝罪しないなら広島に来るな」 とはっきり言うべきだった。


オバマの現実を知った被爆者達
http://blogs.yahoo.co.jp/ryuubufan/69057019.html
オバマが広島を訪れたのは5月27日だった。被爆者達は一様に感激の面持ちだった。史上初めての米大統領の広島訪問という事で、全てがポジティブな空気に支配されていた。最高の演出が施され、訪問失敗は絶対に許されないという空気がそこにあった。被爆者達も諸手を挙げて演出に協力した。オバマの広島訪問は大成功だった。しかし、謝罪を絶対にしないオバマの訪問が意味のあるものである筈がない。絶対悪を為した者を受け入れる方もおかしい。原爆資料館を訪れれば考え方が変わるなんていうのは甘い考えである。被爆者達は過度の前向きさでオバマを迎えた。謝罪を絶対にしないと言う事の意味を甘く考え過ぎた。謝罪はいいから核兵器廃絶に向けた決意を示して欲しいという手前勝手な期待を持った。

絶対悪を為した者は謝罪はしないしできない。謝罪しない者を歓迎などできない。つまり、オバマの広島訪問はそもそもが間違いだったのだ。オバマが大統領任期が切れる間際に広島に行きたいというのは、オバマの理屈に過ぎない。個人的思惑があるのは疑いない。まともな感覚を持っているなら、謝罪しない自分が広島に行くのはあり得ないとなる。しかし、オバマは個人的思惑で行けるなら行きたいと思った。そこでじっくり敵情視察をした。そしたら日本側が馬鹿みたいに訪問歓迎の姿勢を見せている事が分かった。そこで駐日大使を原爆の日に参加させたりして日本側の反応を探った。最期はケリー国務長官を広島に行かせてオバマ訪問の地均しをした。本来あり得ないオバマの広島訪問であったが、日本側の甘い対応に付け込んで見事に訪問を成功させた。そこには世界最高の傀儡政権があったのが大きい。日本人の人の良さと傀儡政権の存在で、本来あり得ないオバマの広島訪問ができたのである。

6月16日、被爆者達は総会を開き、オバマの演説は責任回避と批判決議を行った。「米国の責任を回避する表現があり、具体的な課題の提起もなかった」という事である。被爆者達を怒らせたのは「空から死が落ちてきた」という演説の一部分である。オバマが謝罪しない前提で演説すれば、こういうアホみたいなごまかしを入れ込まざるを得ない。一体誰が原爆を落としたのかという最も重要な部分はどうしたってごまかさなければいけない。原爆はどこからともなく空から落ちて来たとは言えないから、空から死が落ちて来たとした。何じゃこりゃというごまかしである。

謝罪を求めなかった被爆者達はこのごまかしの一文で我に返ったと言える。謝罪を絶対にしないオバマは原爆投下の行為についてこういう表現以外にできない。米が原爆を落としたとは言えないのだ。「空から死が落ちてきた」なんて文学的表現で米の行為を一切消し去った。謝罪しないでいいと言ったなら、こういう表現も受け入れなくてはいけない筈。しかし、とことん考えた上でのものではなかった。謝罪という最も重要な部分に自ら蓋をしたのは被爆者達だった。甘い考えだったのだ。謝罪しないでいいオバマには「空から死が落ちてきた」は受け入れられる筈だった。それを今更ごちゃごちゃ言うのは約束違反である。オバマにしたらこうなるのだ。

謝罪に自ら蓋をした被爆者側に落ち度があったのである。謝罪なしの訪問はあり得ないと言えば良かったのだ。そのメッセージを世界に届ける事が重要だったのだ。被爆者達は、オバマ氏は被爆者との対話や原爆資料館の見学時間が少なかったとして、再度の訪問を促す要望書を送る方針だと言う。馬鹿げた事である。二度目の訪問は二度とない。6月16日のこうした方針はその後黒マスコミは伝えていない。本来大きく伝えるべきだが、黒マスコミは嫌がったのだ。黒マスコミは被爆者達に背を向けたのだ。

被爆者達も自らの失敗を認めなくてはならない。謝罪しない事を受け入れた事は誤りだったと言わなければならないのだ。それをせずに再度の訪問を求めるなど馬鹿げている。オバマ訪問は何の意味も無かったのだ。安倍政府の姿勢も批判しなくてはならない。安倍政府が率先して謝罪の不要を言っていたのだ。日本全体が馬鹿だったのだ。