技術人類学の構想

 これまで、「技術」という人間の活動は、不当に虐げられていたのではないか。「技術」は、長い間、下積みの生活を強いられてきた。技術者や職人と呼ばれる人々もそうかもしれないが、私がいいたいことは、「技術という概念」自体が、歴史的に長い間不当に虐げられてということである。まったく奴隷のように蔑まれてきたのである。
 曰く、技術は科学のしもべである。技術は科学の応用である、などなど。それは単なる「テクニック」ではないか、といった言い草がそれである。
 私は、この、本当は輝かしい伝統を有する「技術」の名誉回復と復権を図り、技術が本来的に有するすぐれて「人間的」な本質の一端、いや全貌を明らかにすることを願い、これをライフワークのひとつとしたい。
 まず、技術が、科学や芸術を生み出す母胎であったことを明らかにしたい。技術こそが、人間の知的活動のすべての源泉であった、ということである。技術は決して科学のしもべや、科学の応用ではない。技術は、その起源においても、歴史的展開においても、科学よりもずっと偉いのである。技術こそが、人間を人間たらしめた根源的契機である。(この観点から、科学的思考の起源を考察したペーター・ヤニッヒのすばらしい本の翻訳が最近出た。)
 技術的活動がすべての人間活動の母体であり基盤である、ということ。科学よりも技術のほうが偉いのだ、ということである。科学(西欧近代科学)の歴史はせいぜい200年。ギリシャ時代まで遡るとしてもせいぜい2000年。いっぽう、技術の歴史は500万年。比較になりません。